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【本地垂迹説】(ほんじすいじゃく せつ)
 日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(あと)を
 垂(たれ)たものだとする神仏同体説。
 平安時代に始まり、明治初期の神仏分離により衰えた。
  《広辞苑・第五版》

 本地は、本来の境地、真理そのものである法身のことで、垂迹神仏が我々の
 前に、認識出来る姿となって現われることです。
 人々を救うためには、まず人々が受け入れやすい、理解しやすい姿をとって
 現れる必要があるため、仏がそうした仮の姿となって現れたのが八百万の神
 であるという考えです。

 仏教が各地に広がる際に、土着の神や宗教行事を取り込んで人々の間に抵抗
 なく入り込んでゆく様子をよく表した考え方です。

 これを書いているのは 12/25。クリスマスです。
 日本では現在、クリスマスは一大年中行事の様相を呈しており、街はこの時
 期クリスマスの飾り付け一色。しかし、クリスマスイブにみんなが教会のミ
 サに出かけるかというと、そんなことはありません。

 現在の日本のクリスマスは、キリスト教の行事からは大きくかけ離れたもの
 になっているように見えます。

  目出度いなら、意味なんてどうでもいいじゃないか

 と、お祭り気分。
 どうしてこんなに変質したものを簡単受け入れられるのかなと思うのですが、
 ひょっとして、本地垂迹という考えが日本人の根底にあるからか。

 キリスト教の神も、日本では日本人に理解しやすい姿となって現れたのかな。
 ただ、「日本人に理解しやすい姿」が現在のクリスマスの姿だとすると、そ
 れはそれで、なんだか情けない気がしますね。
 考えすぎでしょうか?

オリジナル記事:日刊☆こよみのページ 2008/12/25 号

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