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■干支(かんし・えと)の話 ・・・ その2
 さて本日は昨日に引き続いて干支の話です。昨日が
  「丙戌年九月辛亥」の日のこぼれ話でしたので本日は、
  「  〃  壬子」の日のこぼれ話です。
 と言うことになります。

◇あり得ない干と支の組み合わせ
 さて、昨日説明したように干支は10種類の十干と12種類の十二支を組み合わ
 せて作ります。であれば、

  10 × 12 = 120 通り?

 かというとさにあらず。
 組み合わせは10と12の最小公倍数である60通りしか有りません。

 「甲子・甲寅」はあっても
 「甲丑・甲卯」という組み合わせは有りません。

 もしそうした組み合わせが有れば、嘘の記録です(それも干支についてよく
 知らない人の書いた物とわかります)。この謎解きは十干と十二支を並べて
 書いてみれば気が付きます。

 六十干支の最初は甲子で十二支は「子」です。次の「子」が巡ってくるとき
 を考えると、十干は十二支より 2少ないので

  甲→乙→丙→丁・・・

 と「甲」から 2つ進んだ「丙」との組み合わせとなり「丙子」となります。
 このように一つの十二支と組み合わされる十干は十干全部ではなく一つとば
 しの 5個だけ。よって、

  5 × 12 = 60 通り

 です。

◇干支紀日法(かんしきじつほう)と干支紀年法(かんしきねんほう)
 六十干支の組み合わせで 1〜60までの数を表すことが出来ますから、これを
 使って循環する数字を表すことができますから、年月日の記述に使われます。
 冒頭に書いた「丙戌年九月壬子」のようにです。

 このように日を数える方法を干支紀日法、年数を表す方法を干支紀年法と呼
 びます。干支は曜日と同じで順番に巡るもので、改暦などがあってもこの順
 番が変更されることは有りません。この単純さと継続性から歴史上の出来事
 の年月日特定に大変役立ちます。
 
 日に関して十干を適用することは紀元前14世紀頃の殷の時代には行われてい
 ました。これと十二支が組み合わされ六十干支による記日法が用いられるよ
 うになったのはこれから5〜600年ほど後の周の時代から。それ以来日の干支
 の順番は連綿と現在まで続いています。

 干支紀年法の使用は、干支紀日法に比べると大分遅く紀元前 2世紀頃、漢の
 時代に入ってからと言われます。ちなみ干支による順番の記述は60毎に繰り
 返しとなりますから、60歳(数え年なら61歳)になると生まれたときと同じ干
 支に戻ることから、この年齢を還暦(暦が還る)と呼ぶようになりました。

◇「十干」は指の数から
 十干はどのように生まれたかと言えば、誰でも思いつくのは指の数。
 「干」の文字には数を数える意味(「若干」のような用例)があり、指折り
 数えたところから生まれたものと考えられます。
 殷の時代には、十干で表される10日間がひとつの時間の区切りで「旬」と呼
 ばれるようになり、三旬で一月と考えられていたようです。現在でも月を

   上旬・中旬・下旬

 と分けるのは、この頃からの名残です。

◇「十二支」は一年の月の数から
 十二支は元々は一年が十二ヶ月と言うことから生まれたもの。「支」は分割
 すると言う意味がありますから、一年を十二に分割したものが十二支。
 元々は月の順番を表す特別な数詞として使われていたと考えられます。その
 ためそれの文字の原義には各月の季節の変化(特に植物の)を表す意味があ
 ります。

 十二支の文字の原義例
  「寅」・・・うごく(植物が発生する・うごめく)→旧正月
  「卯」・・・しげる、おおう(草が茂り、地をおおう)→旧二月
  「辰」・・・ととのう・ふるう(草木の形が整う)→旧三月
 といった具合です。

 ちなみに、この説明で判るとおり、年と日は十二支が循環しますが、月名に
 関しては旧正月(ただし「夏正」での正月)がいつも「寅月」となるように
 十二支は固定されることになります。その生まれから考えれば当然のことで
 すね(閏月が入ってもこの関係がずれることはありません)。


 今日で終わるかなと思った「干支の話」でしたが、まだ書き終わらないにも
 関わらず、随分長くなってしまいました。仕方がないので、残りはまた明日
 に持ち越します。ではまた明日。

  (『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
   magazine.sp@koyomi.vis.ne.jp までお願いします。)

オリジナル記事:日刊☆こよみのページ 2006/11/19 号

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