■桜田門外の変
147年前の今日、1860年 3月24日は、歴史上名高い
桜田門外の変
が起こった日です。
桜田門外の変は、日米修好条約締結や開港政策、それに安政の大獄などによ
る倒幕派への強圧的な政策をとり続ける大老井伊直弼への不満から、水戸・
薩摩の浪士が井伊大老の登城を狙ってこの行列を襲撃、井伊大老を暗殺した
事件です。
襲撃に加わった者は、水戸藩十七名(うち一名は総指揮で、襲撃実行部隊に
は参加していない)、薩摩藩一名。
襲撃によって井伊直弼とこれに随従した彦根藩士八名が死亡。襲撃した浪士
も八名が死亡(自刃も含む)。さらにその後に捕縛され斬罪に書せられた者
七名でした。残りの三名は逃亡しています。
◇桜田門外の変と雛祭り
事変が発生したのは安政 7年 3月 3日。時刻は五ツ半といいますから、現在
でいえば午前 9時頃のこと。
襲撃がこの日に計画されたのは、この日が 3月 3日、つまり
雛祭り(正しくは、「上巳の節供」)
だったからです。雛祭り、正しくは上巳の節供(じょうしのせっく)ですが、
上巳の節供は、他の人日、端午、七夕、重陽の各節供と合わせて五節供とい
い、この五節供は江戸幕府が定めた祝日に相当する「式日(しきじつ)」と
されていました。
式日には、江戸在府の大名は江戸城へ総登城し、将軍家に対して祝いを述べ
ることになっていましたから、井伊大老も必ず登城すると分かっていました。
また、式日には沢山の大名の登城行列が見られますから、田舎から出てきた
武士達(オノボリさん)が「武鑑」と呼ばれる大名や旗本の紋所や各種解説
の記されたガイドブックのような本を片手に、行列見物をするのはさほど珍
しいことではなかったので、幾人もの浪士が集まっていても警戒されること
がなかったのです。
◇雪の雛祭り
桜田門外の変では、井伊大老を護衛した彦根藩士八名が亡くなっていますが、
このように被害が大きくなったところには、襲撃を予測していなかったとい
うことの他に、この日が大雪だったということも関係しているといわれてい
ます。
大雪であったため、警護の侍達は槍や刀に雪支度の覆いをかけていたため、
襲撃が始まっても迅速に槍や刀を抜くことが出来ず、鞘ごと振り回すといっ
た使い方をせざるをえなかったのでした。
それにしても、新暦でいえば3/24という時期ですから、「大雪」とは驚きで
すね。当時の江戸の人々もこの大雪は「前代未聞」といぶかったそうですか
ら、現代の我々同様、驚いていたようです。まあ、他の年でもこうした遅い
大雪の記録が無いことは無いでしょうが、それにしても何十年に一度の珍し
い天気だったことは間違いなさそうです。
もしこの日がこんな天気でなければ、ひょっとして井伊大老の暗殺は失敗に
終わって、日本の歴史も今とは違ったものになっていた可能性もありますね。
「歴史にもしもはない」といいますが、やはり「もしも・・・」と考えてし
まいます。
(『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
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オリジナル記事:日刊☆こよみのページ 2007/03/24 号
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