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■11/9は「太陽暦採用記念日」
 一昨日、11/9は「太陽暦採用記念日」でした。

 と、普通だと「今日は」とか「明日は」と書くところが「一昨日」とはマヌ
 ケ感満載ですが・・・見落としちゃったんだもの仕方が無い。

 孔子様も「過ちて改めざる是を過ちという」とおっしゃっているじゃありま
 せんか。見落としちゃって二日遅れになったけど書いちゃおう。なんたって
 「こよみのこぼれ話」だもの、当日でなくちゃいけないわけでは無いはず、
 と開き直ってスタートです。

◇「太陽暦採用記念日」とは
 1872年(明治5年)の11/9に太陰暦をやめて太陽暦を採用するという詔書(一
 般「改暦の詔書」と言われます)が布告されたことを記念したのがこの日。
 この日に布告された詔書によって翌年の明治6年は1/1から太陽暦によること
 が国民に知らされたのでした。

 ちなみにこの記念日の11/9という日付は明治5年の日付そのものなので、今
 で言うところの旧暦による日付です。これを現在使われているグレゴリオ暦
 いわゆる新暦の日付に直せば1872/12/9にあたります。

 この日布告された詔書は太陽暦採用を知らせるものでしたが、これは同時に
 それまで1200年以上も日本で遣われ続けてきた太陰太陽暦、いわゆる旧暦の
 終焉を告げる布告でもありました。この布告によって、長らく使われてきた
 太陰太陽暦は明治6(1873)/1/1の前日で終わりを迎えることになりました。

 11/9に「来年から太陽暦になります」と言われたわけですから、大変。来年
 の準備をするために残された日数は11月の残りの日数と、12月の1ヶ月しか
 ないことになりますから・・・と思ったら、そんな甘いものではありません
 でした。太陽暦の明治6/1/1の前日は明治5/12/2なのでした。12月の1ヶ月は
 僅か2日しかない。つまり、改暦まで残された日数は23日しかないのでした。

◇明治6年の「太陰太陽暦の暦」
 11/9の改暦の詔書によって、明治6年の暦は太陽暦のものと国民に知らされ
 たわけですが、実はこのときには既に巷には明治6年の暦が出回っていまし
 た。なぜって、それが当たり前のことだったからです。

 この日刊☆こよみのページでも何度か採り上げた「御暦の奏(ごりゃくのそ
 う)」という話を覚えていらっしゃいますか? これは11/1に行われるもの
 で、この日に新年(翌年)の暦が天皇に奏進される行事で、御暦の奏が済む
 と、晴れて翌年の暦が公式に認められたものとなるという行事、つまり新年
 の暦の誕生日のようなものです。

 現在は暦(カレンダー)を作ることは自由なので、必ずしも新年の暦の解禁
 日が決まっているわけではありませんが、この当時は暦は御上が許したもの
 しか発行することが出来ない時代でしたので、御暦の奏の行われた11/1が暦
 の解禁日でした。

  御暦の奏の日付は11/1 ・・・ 明治6年の新しい暦の頒布が始まる
  改暦の詔書の布告が11/9・・・ 明治6年からは太陽暦と知らされる

 あれ? 11/9に新年は太陽暦と始めて知らされたのに、それより前に新年の
 暦が頒布されたって? その時頒布された暦は何者なの??

 そうです、改暦の詔書が布告されたときには既に巷には従来どおりの太陰太
 陽暦による暦が出回っていたのでした。

 新年、明治6年は太陰太陽暦が続いていれば閏月が挿入されて1年が13ヶ月と
 なることが、薄々(濃厚にかな?)予想されていました。ただし、その閏月
 が何月になるかは分かりませんでしたから、閏月がいつか早く知りたいとい
 うことから、暦の販売は出足から好調となることが予想されます(この当時
 の暦販売数の記録が残ってないかな・・・)。閏月がどこに入るか分からな
 いと、1年の予定なんて立てられませんからね(ちなみに、計算では閏六月
 が入るはずでした)。

 こんな訳で、太陽暦の最初であるはずの明治6年には、大量の太陰太陽暦の
 暦が作られ、頒布販売されてしまっていたのでした。
 あらら。

◇太陽暦採用記念日の日取り
 御暦の奏の日付と改暦の詔書の日付からみると、何ともむちゃくちゃな時期
 に太陽暦採用発表が為されたことがわかります。

 ちなみに、それ以前の改暦の例として、明治5年まで使われ続けていた天保
 暦(太陰太陽暦の一種)がその前の寛政暦から改暦された状況を見ると、
 改暦が決まったときには既に進んでいた寛政暦による翌年の暦の刊行が止め
 られない段階であったので、天保暦による暦の発刊は1年先送りされていま
 す。刊行前でもこれが普通。ましてや、刊行後に改暦するなんて、前代未聞
 もいいところでした。

 なぜこんな無理なことになってしまったかというと、太陽暦への変更という
 大変なことがかなり急に決まって、太陽暦への準備が間に合わなかったから
 と考えられます。

 さらにその裏には、財政難の明治政府が、そのままでは13ヶ月となって、13
 回も公務員の月給を払うのを避けたかった(太陽暦なら12回ですみますか
 らね)という台所事情があったので無理矢理でも何とかするしか無かったけ
 れど、さすがに暦の計算も出来ないうちには、改暦するぞとは言えなかった
 のでしょう。

 ちなみに、暦計算を担っていた天文局が所属していた文部省の大臣から太陽
 暦改暦の主導者と見られる大隈重信に当てた明治5/10/10の書簡が残っており
 それを読むと

  「もうすぐ準備が終わりそうです」

 といったことが書かれています。逆に言えばこの段階でまだ準備(計算)が
 終わっていなかったということです。

 太陰太陽暦の時代の暦の一般的な刊行スケジュールで言えば、暦の計算等が
 終わって、原稿が暦を出版する版元に下げ渡される時期は三月頃。そこから
 印刷用の版木を作って、試し刷りして、間違いを直してという手順を踏みま
 すから、おそらくは夏の頃に出来上がった試し刷りを大隈重信らの政府の要
 人が見て

  あ、来年は13ヶ月あるんだ!

 となってから急遽、太陽暦改暦の話が浮上して大急ぎで太陽暦の暦の準備が
 始まったのでしょうね。

 そんなこんなで、無理やりというか、なんとか年が変わる前に決まった太陽
 暦採用。それが11/9の太陽暦採用記念日のいわれです。

 もちろん、こんなとんでもない改暦でしたから、その後の混乱は大変なもの
 ですが、その話を書けば、こよみのこぼれ話が何回も書けるので、この辺は
 「小出しに」することにして、本日はここまで。

 以上、太陽暦採用記念日の話でした。

  (『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
   magazine.std@koyomi.vis.ne.jp までお願いします。)

オリジナル記事:日刊☆こよみのページ 2020/11/11 号

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