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明治改暦の周辺事情・国家財政の危機?
    日本で現在の暦が正式に施行された年は明治6年(西暦1873年)。これまで使われていた太陰太陽暦(天保壬寅暦)が廃され、現在の太陽暦(グレゴリウス暦)が正式な暦とされました(正確にはグレゴリウス暦には準拠していませんでした。多分単なる誤り。明治31年に修正されました)。
 この改暦については、有名なエピソードがあります。
 これ以前から諸外国で通用している太陽暦への移行は一部知識人や政府の要人の間では議論されていたようですが、国民の生活に深く根付いている暦をおいそれと変更することはなかなかできないことだったのでしょう。しかしながら当時の「新政府」が抱えていた大問題が、この難しい決断をくだすきっかけになりました。その大問題とは・・・「財政難」。そう、新政府は大変貧乏だったのです。

 徳川幕府から政権を引き継いだばかりの新政府には、お金がなかった。お金がないからと言っても政府は、公務員には月々の月給を払わなければならない(ちなみに、幕府の時代は年間「××石」と言う風に、年棒制でしたが、明治に入って公務員への給与は月給制に変更されました。で、今に至る)。そして間の悪いことに明治6年は、その当時の暦であった旧暦によれば閏年で1年が13ヶ月あった。今まで通り年棒制であったなら何の問題もなかったのでしょうが、月給制にしたばかりに翌年は1回余分な月給を払わないといけない。苦しい財政の新政府には頭の痛い話だったわけです。

 ここで、頭痛の種を取り除いたのが「改暦」。太陽暦にすれば、今後「閏月」とは未来永劫おさらばでき、月給は1年に12回しか払わなくてすむ。その上太陽暦による明治6年の1月1日は旧暦では明治5年12月3日。ここで改暦してしまえば明治5年の12月は2日しかないので、「2日しか働かないのに月給くれはないだろう」と言う理由で12月分の月給は支払わないことにしてしまい、都合2ヶ月分の給料を「合理的な理由により」支払わないで済んでしまったのでした。

 どうやら、この「絶妙のタイミング」を逃すまいと急いで改暦を行ったためでしょう、改暦の発表は旧暦による「明治6年の暦」が発行された後でした。当時は、政府の編纂した暦を特定の民間業者に独占的に出版する権利を与え、その権利と引き替えに政府に冥加金を納入させていたのですが、そうしてお金を出させておいて出版が済んだ後にいきなり改暦を実行。出版した業者は、印刷した暦が「ぜーんぶただの紙切れ」になってしまったわけで、大変な損害を被ったそうです。まるで政府による詐欺にあったようなもの。こんなことからも「なりふり構っていられない」新政府の事情がかいま見られます。
 この改暦によって、天保壬寅暦は晴れて「旧暦」となったわけです。目出度し目出度し。

付 録 
 天保暦から太陽暦への改暦は次の太政官達第三百三十七号による。太政官達は現在の政令にあたるもので、第三百三十七号は現在もまだ有効な法令です。参考までに必要な箇所を抜き出して記します。
太政官 達 五年十一月九日 第三百三十七号
今般改暦ノ儀、別紙詔書ノ通、仰セ出サレ候条、此旨相達シ候事

朕惟フニ、我邦通行ノ暦タル、太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ躔度ニ合ス。故ニ二三年間、必ズ閏月ヲ置カザルヲ得ズ、置閏ノ前後、時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生ズルニ至ル、殊ニ、中・下段ニ掲ル如キハ、率ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ、蓋シ、太陽暦ハ、太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ、日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年後僅ニ一日ノ差ヲ生ズルニ過ギズ。之ヲ太陰暦ニ比スレバ、最モ精密ニシテ、其便・不便モ因ヨリ論ヲ挨タザルナリ、依テ、今ヨリ旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン、百官・有司、其レ此旨ヲ体セヨ。

  明治五年壬申十一月九日


この詔書の主旨を実行に移すために太政官は次の布告を出しました。
一、
今般太陰暦ヲ廃シ、太陽暦御頒行相成候ニ付、来ル十二月三日ヲ以テ、明治六年一月一日ト定メラレ候事、
 但、新暦鏤板出来次第、頒布候事。
一、
一箇年三百六十五日、十二箇月ニ分チ、四年毎ニ一日ノ閏ヲ置キ候事。
一、
時刻ノ儀、・・・・以下省略
以上のような訳で、明治5年12月3日を明治6年1月1日と改めたわけです。
ちなみに、上の太政官達はよく見ると現在使われているグレゴリウス暦ではない。このまま読むとユリウス暦のように必ず4年に1度閏年が来てしまうと言うことです。
この誤りに気が付いて、明治31年に次の勅令が出ます。
勅令第九十号
神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ベキ年ヲ閏年トス。但シ、紀元年数ヨリ六百六十ヲ減ジテ百ヲ以テ整除シ得ベキモノノ中、更ニ、四ヲ以テ其数ヲ整除シ得ザル年ハ平年トス
この勅令が出たのは先に書いた通り明治31年。つまり1898年。4で割り切れるのに閏年とならない1900年が目の前に迫って、焦って出した感じですね。現在使われている新暦の暦日に関しては、先の太政官達とこの勅令が根拠となっています(誰も書き直していないので、古い言葉と漢字が多く、この文を打つのは大変でした)。

余 談
旧暦の最後の年は?
法律上は、明治6年からは新暦となり旧暦は使われなくなったはずですが、こういったものは「変えます」といって直ぐに変わるものでは無いので、官暦(政府が正式に認めた暦)にも明治42年の暦まで旧暦の日付が参考として記されておりました。
明治43年以後は公的な暦からは旧暦は全く姿を消して今に至ります。
神武天皇即位紀元
紀元26xx年なんて言うと、国粋主義者と言われそうですが、実のところまだこの「神武天皇即位紀元」は法律上生きています。
何に使っているかというと、それは閏年の根拠。そうです、明治31年に出された置閏法を定めた勅令第九十号が現在の閏年の根拠。この勅令に変わる法律が出来るまでは、僅かながら「神武天皇即位紀元」の年数が必要なのです。
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